二年のご無沙汰です、mand1です。
日本を代表する大メーカー、ソニーやホンダの凋落が伝えられて久しいです。私などその両メーカーの信者といってもいいほど製品を愛していました。特にホンダなど、2ストロークエンジンが主流のオートバイ500ccのレースに、出力で劣る4ストロークで参戦するなど、常軌を逸しているとしか思えないイカレた(最大限の賛辞)メーカーでした。私は若い頃オートバイに乗っていましたがもちろん愛車はホンダ製。創始者のチャレンジング・スピリットに心酔していました。 ”ものづくり”の復権が叫ばれて久しいですね。日本がこのところ世界の製造業をリードできない状況は、テレビの画面を4Kや8Kにすることで解決できるでしょうか? 先行きの見えない閉塞感に覆われているのは何も製造業においてだけでなく、エンタテインメントやサービスなど、あらゆる分野において共通しています。より性能や生産性を上げる、安く作るといった、すでにあるものを発展させたり洗練させるのは得意ですが、これまで無かったものを一から創るとなると沈黙してしまう。私はこれまで日本人が各論ばかりをやって、本質的な総論部分においてじっくり考えることをしてこなったことのツケが回ってきた、その手法による発展の限界を迎えているのだと考えています。 エンタテインメントの分野における空騒ぎは時代の終わりの狂想曲のようです。祭が終わりに近づいていることを皮膚感覚で分かっているので、考えるのを止め、皆でええじゃないかと踊っているのだとすれば納得です。 今度ばかりは黒船の外圧によってでなく、自らが考え変化し、道を探さなければならないような気がします。いつまでも来ないゴドーや「三丁目の夕日」の再来を待つのでなく、海図のない回航の準備しているようで、なんだかワクワクします。 スポンサーサイト
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選択肢が多いのは幸せか? mand1です
2020年の東京オリンピック、パラリンピックの公式エンブレムが披露されましたね。審査があって、複数のものの中から選ばれた一点だとのことです。私はデザインの専門家ではありませんが、何か変です。ここにはこういう意味が、それにはそういう意味がといちいち説明できるようですが、全体としてデザインの力強さがまったく感じられません。決して懐古趣味ではないのですが、1964年のオリンピックの時のデザインのほうが遙かに優れていると思うのは私だけではないと思います。 自由と多様性を意識し過ぎるがあまり、もっともおかしなもの、もっとも人気のないものを選ばせてしまう圧力が働いてはいないでしょうか。昨今のテレビCMやドラマなど見ていても、かつて主流の座を占めていた美形は不在。私の眼から見ると、かなり厳しい感じの人がメインストリームに居ます。以前、ふと見かけた女性のヘア・スタイルカタログのモデルさんたちは、こんな言い方をしては失礼ですが、並、もしくは並以下の方々ばかりです。本当に多様性を尊重するのであれば、美形の人もその中に入れてあげてしかるべきです。こうしてみると多様性って、かつての女性解放運動のモーメントとよく似た、立場を反転させようとするだけの、革命暴力的な思想のような気がしてきます。これまでワゴンセールとして十把一絡げだったのが、それぞれに価値が与えられ棚が用意された。ただ、それだけでは気が済まず、かつて最上段の棚にいた奴を引きずり下ろせといった不寛容さと暴力性を感じずにはいられません。 良いものが素直に選ばれない時代。昔にくらべ世の中はずっと自由になったはずなのに、なんだか以前より不自由になっている気がします。不自由さが自由のコストだなんて、皮肉というか矛盾していますね。 |
霊感のない、mand1です
私は地震の専門家でなく、その発生のしくみについてまったくわかりません。富士山のなりたちについて、複数の地下岩盤が押し合って、行き場を失った巨大な力が岩盤の隆起をもたらしあの形が造られたのだと素人考えしています。 岩盤どうしがぎゅうぎゅうと押し合いをすると電気を発すると云われていますね。それをキャッチしようとする地震予知の手法もあるそうですが、岩盤の声を聞ける人などいないのでしょうか? 「あ、あー、もう限界」「もうだめ−、あれー!!!」 あの世や神とコンタクトをとれると称する人が世間にはごろごろいらっしゃるのですから、霊界との距離はいかほどかしれませんが、たぶん岩盤のほうがずっと近いのだし、聞こえやすいと思うのは私がどちらの分野においても門外漢だからでしょうか? 凡人には聞こえない岩盤の悲鳴をキャッチできるのであれば、英雄的に人助けができますし、怪しげな壺を売りつけたりするより、ビジネスとしても大成功しそうです。 |
かくし芸の谷啓がみたい、mand1です
テレビがつまらなくなったと言われ久しいですが、それでも依然メディアの王様はテレビであり新聞だと思っています。私自身テルミンの活動においても、それを実感します。ネットは”何か”について深く調べるには向いていますが、その”何か”を知る機会の多くは新聞であり、テレビであることがほとんどです。特にテレビは受動的なメディアで、これに勝る機会はないと思っています。 テルミンが日本でこれほど知られるようになったのもテレビに依るところが大きく、テレビには感謝もしているのですが、あえて一言申し上げます。同じキャスト、同じ枠組みを繰り返しやるの、いい加減やめてみてはいかがでしょうか? テレビ(民放)は広告媒体であり、スポンサーの意向次第であることは理解しているのですが、好感度調査やマーケティングにより固定されたキャストを毎週、毎年やるのはただ飽きるだけでなく、ひいては日本の経済を停滞させることに繋がっていると考えています。勝ち馬にしか乗らず新しい才能を排除している姿勢、同じキャストが年々年老いていくのを見るのは、建設的なマインドを萎えさせているかもしれません。 某国営(公共)放送の朝のニュースの美術セットの意味不明さについてはヤンキー趣味の反映ということで理解はしているのですが、震災前と変わらぬセット、キャストは、2011年の辛い記憶を呼び覚まします。決して震災のことを忘れ、風化させるが良いというのではありません。新たな第一歩を踏み出すためには、枠組みの刷新が必要なのだろうと考えています。 今年の年末年始もデジャブが繰り広げられるのでしょうね。来年こそはテレビ界にルネサンスがもたらされますことを。 |